つい今しがた、元寺尾の錣山親方の訃報に接して絶句してしまった…。

元関脇寺尾の錣山親方死去 60歳 細身の体で闘志あふれる突っ張り 親方として阿炎ら育成(日刊スポーツ)

確かに少し前に入院されてたニュースを見たり、NHKの相撲中継で出てきて「あれ、少し痩せたのかな?」とは思ってましたが、まさか亡くなるとは…。


突っ張り一本やりの気っぷのいい相撲と、甘いマスクで一世を風靡(ふうび)した元関脇寺尾の錣山親方(本名・福薗好文)が17日、東京都内の病院で死去した。60歳だった。父が名関脇、3兄弟も関取で逆鉾との兄弟同時関脇も達成。通算出場など、数々の出場回数記録で歴代10傑入りするなど、116キロの細身の体ながら“鉄人”の異名も誇った。以前から不整脈など心臓に持病を抱え闘病生活を送っていたが、ファンを魅了した鉄人でも病魔には勝てなかった。

 錣山親方の危篤の報を受け、弟子の小結阿炎(29)らは急きょ、冬巡業が開催されていた関西から帰京した。入院していた都内の病院で錣山親方は、関係者らにみとられたようだ。先月の九州場所も不整脈で入院し休場していた。昨年九州場所で愛弟子の阿炎が、錣山部屋史上初の幕内優勝を果たした時も心臓の病気で入院中だった。「心臓で入院しているのにバクバクさせるなよ」と、嬉しそうに話していた同親方。その2年前、コロナ禍でガイドライン違反が発覚し、3場所出場停止からはい上がってきた阿炎の復活優勝。師匠としてこれ以上の喜びはなかった。あれから1年。夢見心地のまま、師匠は天国に旅立った。

 父は、もろ差しの名人と言われた元関脇鶴ケ嶺の井筒親方。その父が部屋を構える東京・墨田区で生まれた(協会発表の出身地は鹿児島県姶良市)。母節子さんを慕い、その母が死ぬ際に「相撲取りになって」の言葉で角界入りを決意。長兄で元十両の鶴嶺山、次兄で元関脇の逆鉾の後を追うように、79年名古屋場所で初土俵を踏んだ。食べても太れない体質で、細身の体は最高でも116キロ。それでも闘志あふれる小気味の良い突っ張りを武器に5年後に新十両、85年春場所では新入幕を果たした。元号が平成になった89年3月の春場所では、逆鉾との兄弟同時関脇を果たし井筒部屋の栄華を誇った。昭和38年生まれの「花のサンパチ組」として横綱北勝海、大関小錦、関脇琴ケ梅らと土俵を彩りもした。

 闘志を全面に押し出す敢闘相撲で、敗れた相撲でも好角家を喜ばせた。横綱千代の富士をあと一歩まで追い詰めながら、吊り落としで敗れた一番。のち横綱貴乃花となる貴花田との初顔合わせでは敗れた悔しさで、さがりをたたきつけながら引き揚げる姿がファンを魅了した。

 細身の体でケガの多い力士生活だったが、それでも土俵に立ち続けたからこその勲章がある。通算出場(歴代4位)、幕内連続出場(同4位)など、休むことなく土俵に上がり続けた末の記録で「鉄人」とも称された。

 02年9月の秋場所限りで現役を引退。年寄錣山を襲名し井筒部屋で後進の指導にあたり、04年1月に分家独立し錣山部屋を創設した。15年に検査入院するなど不整脈の持病がありながら、熱心な指導で阿炎、小結豊真将らを育て上げた。次兄は19年に58歳で、長兄は20年に60歳で他界。太く短い人生だったが、果敢に立ち向かっていく真っ向勝負の「漢寺尾」の相撲は、永遠に相撲ファンの心に刻まれる。

井筒三兄弟の末っ子で、長兄のお兄さん(元十両の鶴嶺山。引退後はちゃんこ屋さんを経営されてました)と、次兄のお兄さん(元関脇の逆鉾。横綱になった鶴竜の師匠でもありました)が記事にも書いてあるとおり、ここ3-4年の間に立て続けに還暦前後で亡くなられてたんでしたね。

その際には錣山親方が亡きお兄さんの愛弟子の鶴竜を錣山部屋で引き取りたい意思はあったものの、錣山部屋じたいが時津風一門→貴乃花一門→二所ノ関一門へと一門を移転したことでお兄さんの逆鉾が運営していた井筒部屋と一門が違ってしまったので引き取ることができなかった…という話もありましたね。それが結果的には鶴竜が横綱特権5年で「鶴竜親方」として活動せざるを得ず、ただでさえ65歳再雇用の制度ができちゃって空きがなくなってしまったもんだからなかなか親方株を獲得できない要因のひとつでもあるそうですし。

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「寺尾のどすこい大相撲」というゲームが寺尾関を知るきっかけでした。

個人的には中学生の頃にファミコンソフトで購入した「寺尾のどすこい大相撲」というゲームがありまして、あの時は千代の富士のファンでしたが「ファミコンので相撲のゲームがあるなんて」とびっくりして買った記憶が物凄く強いですね。ちなみにこのゲーム、大相撲で寺尾関orオリジナルの力士を育ててどんどん昇進していく通常モード(一応調べたら「昇進編」というらしいです)の他に、なぜかRPGモードもあってむしろ親友は私に借りてそれにハマってました。むしろそこから寺尾関の名前とかを覚えて「ああ、あのゲームの。」と応援するようになった、という通常の好角家とは間逆な感じで知ることが出来ただけに逆に記憶に残ってますね…。

※ついでに書くとこれが出たのが私が中3の秋の頃、つまりは高校受験勉強の時期でして、深夜ラジオと共に最高の気分転換として楽しんでました。RPG編には手を出さなかったので高橋名人ではないですが「ゲームは1日1時間!!」もかからずにゲームが短時間で楽しめたのもありがたかったです、はい。

あとは「すごいなー」と思ったのが、昭和38年度生まれの力士が物凄く多くそれでいて出世した力士も多かったので「花のサンパチ組」と呼ばれていたのですが、そのどの力士たちよりも長く現役をつとめあげて、横綱の北勝海、大関の小錦、更に関脇の琴ヶ梅…の同い年の力士たちの引退相撲での「最後の取り組みの対戦相手」にことごとく指名されてたんですね。そして通算成績としては長らく歴代1位の敗戦数だったということも。この記録は後に40歳になるまで現役を続けた旭天鵬に塗り替えられて現在は歴代2位の記録なんですが、これは将棋の加藤一二三九段の通算1000敗を超える過去歴代1位の敗戦記録と同じで「コンスタントに勝たないと、そこの番付(幕内、十両)から落ちてしまう/将棋の場合はトーナメントが多いので一回負けたら対局数が増えない」という事情がありまして。

逆に言えば「怪我がほとんどなくほぼ休みなしで出続けることができた」ことと「長らく、関取に昇進してから、優勝するような大勝ちは少なかったけどそれでも幕下に陥落してしまうような大負けも少なく、実に安定した相撲を取り続けることが出来た」ということで、まさにそういう意味では「本当に凄い力士」だったなあとも思いますです。

それとお弟子さんも、豊真将関も阿炎関も本当にいい力士として育てましたし…たぶん錣山部屋は豊真将→立田川親方が継承ないし当面は次ぐことになるのかもしれませんが、しかし上のお兄さんふたりと同じぐらいの還暦前後で亡くなるとは思わなかったですねえ。なんつーか、昭和どころか平成も遠くになりにけり。ご冥福をお祈りいたします。