しかし円楽師匠が亡くなった次の日に、まさかアントニオ猪木氏まで…。

燃える闘魂・アントニオ猪木さん死去 79歳 心不全 1日朝都内の自宅で…アリ、シン、S・小林らと名勝負(スポーツ報知)

今日の午前中、訃報のニュースに接して「…マジか。昨日、円楽師匠の訃報があったばかりなのに」と絶句してしまいましたな…。

元プロレスラーで元参院議員のアントニオ猪木(本名・猪木寛至)さんが1日朝、都内の自宅で亡くなった。死因は心不全。79歳だった。通夜、告別式などは未定。

 猪木さんは2018年に心アミロイドーシスを発症し闘病を続けていた。実弟の猪木啓介さんによると、亡くなる前日の9月30日は猪木さんから「お前ちょっと部屋へ来いよ」と呼ばれ、対面したという。

 その時の様子を啓介さんは「話はできませんでしたが、目もはっきりしてよくなったと思っていたんですが、今朝に容態が急変しました」と明かし、現時点で死因は不明だが自宅で亡くなったという。啓介さんは「あれだけ元気だったのに何でかな…と思って。ちょっと早いなと思います。今はただ寂しいです」と声を詰まらせた。

 猪木さんは、1943年2月20日に横浜市鶴見で生まれた。中学1年でブラジルへ移住し17歳で力道山にスカウトされ1960年4月に日本プロレスに入門。9月30日に台東区体育館での大木金太郎戦でデビューした。

 以後、ジャイアント馬場さんとのタッグ「BI砲」で力道山亡き後の日本プロレスを支えたが1971年12月に日本プロレスを追放。72年3月6日に大田区体育館で新日本プロレスを旗揚げした。

 1976年6月26日に日本武道館でプロボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリと格闘技世界一決定戦で対戦するなど、プロレス界に一時代を築いた。タイガー・ジェット・シン、ストロング小林との名勝負は伝説として語り継がれている。

 1989年には参院議員に当選。イラクの日本人質解放、北朝鮮との交流など政治家としても活躍した。98年4月4日に東京ドームでプロレスラーとして引退。その後も政治家、実業家など幅広く活動したが2018年に難病指定の「心アミロイドーシス」を発症していることを告白し闘病生活を送っていた。

 8月26日は新たなマネジメント会社「株式会社 猪木元気工場(略名IGF)」の設立を発表。日本テレビ系24時間テレビに生出演した姿が公の場での最後となった。

個人的には何度かお見かけしたことがありまして、一番印象的だったのはたまたま何かのパソコンソフトを買いに秋葉原に行った際に、「スポーツ平和党」から参院選に立候補した時の猪木氏を見かけた時で「いやあ本当にでかいんだな、アントニオ猪木って」と、そのガタイのでかさと顔とあごのでかさに正直言ってびっくりしたってことでしてかねえ。あとは大学時代に横浜に住んでた頃になぜか東海道新幹線のホームで猪木氏を見たってことですかねえ「新横浜から新幹線ってのも珍しい」と(苦笑)。

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プロレス好きの円楽さんが猪木さんを「誘っちゃった」のかもな…。

三遊亭好楽「歌さんが呼んじゃったのかな」笑点メンバーの兄弟子が円楽さん悼む(スポーツ報知)

で、今朝更新されていたスポーツ報知の記事より。好楽師匠が兄弟弟子の円楽師匠を悼むコメントを出されてましたが…、「ああ、プロレス好きな円楽さんが、猪木さんも誘っちゃったのかもしれないな」としみじみと。

日本テレビ系演芸長寿番組「笑点」の大喜利メンバーで活躍した人気落語家・三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく、本名・会泰通=あい・やすみち)さんが30日、肺がんのため都内の病院で亡くなった。72歳。所属事務所が公表した。葬儀は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。

 同じ円楽一門会で、「笑点」の大喜利メンバーとして円楽さんと長年共演してきた兄弟子の三遊亭好楽がこの日、都内でスポーツ報知の取材に応じ、思い出を語った。

 2020年4月に亡くなった妻・とみ子さんのお墓参りをした直後だった。孫の言葉に耳を疑った。「円楽さんが亡くなった」。信じられずにテレビをつけると、円楽さん死去のニュースが目に飛び込んできた。

 「歌(歌丸)さんが呼んじゃったのかな。母ちゃんとは49年間連れ添ったけど、楽ちゃんは52年間。前座の時からですから。野球して、お酒を飲んで、海外旅行をして。うちの母ちゃんと同じ72歳で逝ってしまって。(とみ子さんに)『楽ちゃん、早く来すぎだよ』って怒られてるんじゃないかな」

 4歳差の円楽さんとは「兄さん」「楽ちゃん」と呼び合い、苦楽を共にしてきた。「よく2人で、5代目円楽師匠に怒られてね。『もっと面白いこと言えって』。番組では『腹黒』と言われていたけど、私と楽ちゃんの間ではそんなことなくてね。頼んだことは嫌な顔をしないでやるタイプでね」

 脳梗塞(こうそく)のリハビリを続ける円楽さんが6月頃、笑点の収録を行う後楽園ホールに現れた。痩せ細っていたが、その2週間後10キロ太っていた。「退院して食べたいものが食べられる。“これ”もやれるしね」としたお酒を飲むしぐさが忘れられない。

 8月11日。円楽さんが約7か月ぶりに高座復帰した国立演芸場で交わしたやり取りが最後の会話となった。円楽さんからうなぎの差し入れを受け取り、「ごちそうさまです。でも弟子が16人いるんですけど」と言うと、円楽さんからは「そんなの自分で買いなさいよ」と返ってきた。

 若手が修業する場を作ろうと「両国寄席」をたち上げたのも、垣根を越えた東西の売れっ子を集めた博多・天神落語まつりを開催したのも円楽さんだった。「年下の彼にずっと甘えていたけど、もうそんなこと言ってられないね。楽ちゃんの思いを継がないといけない」と目に涙をため、誓った。その後、自宅を弔問し「いい顔してました」と語った。

円楽師匠は中学時代に天龍源一郎氏と同級生だったそうで(当時は中学生でも力士になれたので地元の両国中学校に通ってたそうですね)、その流れで大のプロレス好きだったのは有名な話だったんですけどね。お弟子さんの伊集院御大がラジオで「うちの師匠は落語家仲間よりかは、プロレスラーとか野球選手とかそっちの人たちとよく飲んでた」って話をしてましたから。

そう思うと、6年前に亡くなった永六輔氏と大橋巨泉氏、ほぼ同年齢で同時代に放送作家・タレントで一時代を築いたご両人はわずか5日違いで亡くなられたんですが「ああ、永さん、巨泉さんを連れてっちゃったんだろうな。三途の川の船でのおしゃべり相手がほしかったんだろうな」と。そして今回は円楽師匠が亡くなった翌日にアントニオ猪木氏が亡くなるとは。お互い闘病生活が長かったですし猪木さんに「オレ、あっちに行くから一緒に行かない?」ってお誘いしたのかもしれないなあ。

で、「天国演芸場」の楽屋に猪木さんもつれてって、談志師匠が「偉え。お前だけじゃなくて猪木まで連れてくるとは。大したもんだ楽太!!」って褒めそうだ。まあ歌丸師匠からは「猪木さんもそこで止めなきゃ」って一緒に説教されたりしてね(苦笑)。果たしてジャイアント馬場さんはどういう顔をするんだろう、とか。「天国競技場」では師匠の力道山さんや他のプロレス仲間も「遅いじゃないか、猪木っ。スクワット1000回な!!」って待ってそうな気がする。

長い人生そして長い闘病生活本当にお疲れ様でした。ご冥福をお祈りします。