・「鉄人」衣笠さん 大腸がん発覚後も仕事への意欲衰えず(NHKニュース)
今日は午前中に息子の療育センターへのリハビリ等がありその帰りの車の中で、TBSの「たまむすび」を聞いてたらそのニュースを知った。いやあ、数日前に声がかすれ気味ながらも巨人戦の解説をしててかなり心配してたんだけども…。
「鉄人」と呼ばれて国民栄誉賞も受賞した衣笠祥雄さんが23日夜東京都内で大腸がんのため亡くなりました。衣笠さんが所属していた事務所によりますと、衣笠さんは大腸がんが発覚したあとも仕事への意欲は衰えることなく、ことしも開幕前には取材のため、キャンプ地まで足を運んでいたということです。
19日には中継で解説 ネット上で衣笠さんを心配する声
衣笠さんは今月19日に民放でテレビ中継の解説を務めましたが、その際、ネット上では衣笠さんの様子を心配する声があがっていました。
このうち、ツイッターでは、「衣笠さんの声が弱々しすぎて心配になるレベルなんだけど大丈夫なのか」といった投稿や「『鉄人』衣笠祥雄氏の声が心配!物腰柔らかい衣笠氏の解説をまた元気な声で聞きたい」といった投稿が相次いでいました。
そして、この4日後に衣笠さんが亡くなっていたことが24日伝えられると、死を悼む投稿が数多く寄せられました。
ツイッターには、「最後の解説は『休めばいいのに』と心配になったけど、野球の仕事に穴を開けることは絶対にしない、最後の最後まで鉄人だったのだなあ」というコメントや、「現役時代、デッドボールを受けても相手投手を怒らない紳士、こんな人はもう二度と現れまい。つつしんでご冥福をお祈り致します」といった声が寄せられました。
所属していた事務所の担当者は、「とにかく突然のことでした。今後についてはなにも決まっていません」と話しています。
NHKの記事にもありましたが、確かBS-TBSの横浜対巨人戦だったと思うんですが、衣笠氏が解説で出ておりました。が、かすれ声で「これは物凄く調子が悪そうだなあ」と心配になるぐらいの状況でしたので…。
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亡くなる5日前まで仕事に穴をあけない「鉄人」の凄さを…。
幸い、実況のTBSのアナウンサー氏と、一緒に解説席に座ってた槙原寛己氏(そういえばこの人は現役時代、衣笠氏がプレーしていた(引退後でしたが)広島相手で完全試合やったんだよなーと思いだしたり(大汗))が、非常に上手にフォローしてたので事なきを得たのですが、その際に中継席映像がパッと写り、「あれ、衣笠氏、スキンヘッドになっている…」と気づいたのが今でも忘れられない記憶になりましたね。もしかしたら抗がん剤とかを服用してたのかもしれませんね。
で、ここの話、どうも別のスポーツ紙の記事によると、衣笠氏の調子があまりに良くなかったんで、取材に来てた槙原氏が試合途中から一緒に中継席に座って喋ってくれたようですね。
・槙原寛己氏 衣笠祥雄さん“最後の解説”明かす 急きょ補佐役「今日はありがとな」(スポニチ)
いやあこれは槙原氏もこの訃報には本当にびっくりだろうな…。
プロ野球・広島で活躍し、2215試合連続出場で「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄氏23日、上行結腸がんのため都内で死去した。71歳。京都府出身。
衣笠さんは19日、BS―TBS「DeNA―巨人戦」の生中継で放送席に座り、解説。かすれ声に心配の声が集まっていた。
衣笠さんと一緒に解説をした元巨人の野球解説者・槙原寛己氏(54)は24日、TBS「ゴゴスマ」に電話で生出演。「解説の日は衣笠さんの体調が本当に思わしくなく、なかなか声が出なくて。いろいろしゃべりたいのに、しゃべれないもどかしさを横で感じていたので。本当に残念」と衣笠さん最後の解説の様子を明かし、悼んだ。
「野球の現場が非常に好きな方だったので、中継(解説)があるからということで(球場に)来られていたと思うんですよね」
当初、槙原氏が解説を務める試合ではなかったが「(スタッフが)衣笠さんの体調がもう一つなので、槙原さんも横にいてください」と急きょサポート役を担った。
「体調が思わしくないというのは数年前からありましたので、大好きなお肉もだいぶ控えられていました。体調がもう一つなんだなというのは感じていました」
今年1月にTBS野球解説者の新年会が行われ、その時には病気を思わせる「そんな感じは全くなかった」が、19日に会った時に「非常にやせられた印象でした」と振り返った。
19日の生中継が終わると、衣笠さんは「今日はありがとな」と繰り返し、槙原氏や実況アナウンサーと握手。槙原氏は「僕が急きょ呼ばれたこともあったので、衣笠さんは『ありがとう』と言ってくださったんだと思いますが、かえって申し訳ないぐらいの『ありがとう』を言っていただきました」と話した。
それにしても現役時代、デッドボールを受けて骨折しても試合を休まなかった「鉄人」として名を馳せて、カル・リプケン選手には記録を破られるも連続試合出場記録を樹立して国民栄誉賞を受賞した衣笠氏を思うに、あのかすれ声を聞いて「談志師匠の晩年の声とよく似たかすれ声だったな…ああ、ここから闘病生活に入るのかな。」と薄々感じてたんですが…これがまさか「最後の仕事」になってしまうとは思いませんでした。
まさに引退してからも仕事に穴は開けないという意味では「鉄人」だったんですね。
これはもう日本一にならなきゃ駄目だよ、カープ。
奇しくも広島東洋カープは近年、観客動員数を物凄い増やして、更に若手の育成にも成功してリーグ優勝まで手が届くぐらいになってきましたが、冷静に考えれば「最後に日本一」になったのは1984年、つまりは衣笠氏や同年代の「ミスター赤ヘル」山本浩二氏が現役の頃以来達成してなかったんですね…。阪神が最後に日本一になったのはその翌年の1985年。広島の場合は1986年・1991年にリーグ優勝した年は日本シリーズでいずれも西武に負けてるわけで(まさか3連勝から4連敗。更に第1戦が引き分けで前代未聞の「日本シリーズ第8戦」が実現してしまったのが1986年だったんですね)。
これは本当に広島の現役選手たち首脳陣の皆さんは「負けられない」戦いがまたひとつ…。
それと個人的には、一度ぐらいは衣笠氏の広島でのコーチないし監督の姿は見てみたかったですね。同い年の山本浩二氏がいた影響で最後まで回ってきませんでしたが…。でもよくよく考えてみれば極めて似たような立場としては、上記の槙原寛己氏も、ほんの一年後輩に同じ時代に活躍した「先発三本柱」で名を馳せた昔の巨人のエース・斎藤雅樹氏がいるんで、これまたなかなかコーチや監督の声がかかりづらいのは相似点でもあるんですが)。
いずれにしてもまだ71歳。うちの両親とほぼ同年代なだけに、過日亡くなった星野仙一氏(よくよく考えてみればこの方も衣笠氏と同年齢でしたし)の訃報に接したのと同じぐらい寂しい、の一言に尽きますね…。ご冥福をお祈りいたします。
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