・ロッテ・三木、チームに欠かせない存在も危機感「勘違いしてはいけない」(ベースボールキング)
どこでも守れて、しかもレアード様の寿司も喰らう(笑)。こういう名脇役・バイプレーヤーを大事にしてこそチームは盛り上がるし競争も活性化するわけで。何より彼の謙虚な姿勢がいいなあ…。
昨年10月に右膝手術
昨年10月25日に都内の病院で『右膝蓋大腿関節軟骨損傷』と診断され、『鏡視下右膝軟骨修復術および右膝ガングリオン切除術』を受けたロッテ・三木亮は、完全復帰を目指してロッテ浦和球場で汗を流している。
昨年10月末に手術を受けた三木だが、シーズン終了直後にZOZOマリンスタジアムで行われた秋季練習では他の選手たちと同じように練習メニューに参加し、右膝を痛めていたように見えなかった。ただ、シーズン終盤の8月くらいから痛みを感じていたという。
「シーズンオフに入るタイミングだったので、手術をすれば痛みがとれるんですけど、手術をしなくてもいずれは痛みが取れると言われました。ただ、それが1週間後かもしれないし、1年丸々取れないこともあると言われました。やっぱり痛みを持ちながらやるよりは、オフに入るタイミングだったので、1回綺麗にして痛みを0にしてから、もう1回やりたいと思いました」と手術に踏み切った。
三木はこの時期、毎年ロッテ浦和球場でランニング、打撃練習、ノックと朝早くから夕方までみっちり練習している姿を目にしている。故障明けということもあり、例年に比べると、練習量が気になるところ。
「みんな秋のキャンプで相当練習をこなしているでしょうし、それを継続して春キャンプに入ってくるでしょうから、僕は11月、12月と丸々抜けている。そこは不安はありますが、取り返す時間はあるかなとは思うので、焦ってもダメですけど、ある程度の危機感を持ちながらやっていかないとなと思っています」。
打撃練習でいえば、20日は約2時間近く室内練習場で打ち込み、屋外でランニング、ノックを受けたあと、再び室内に戻って打ち込んだ。「まだ粘りとかはないですけど、振ることに関しては負担がない。キャンプに入ったら振るので、今のうちに振っておかないと、という感じで振っている」。
ノックも20日の練習から膝に負担が少ないスパイクを履いて、「正面だけならできるかなという感じでやっている。それであんまり負担をかけすぎてもあれなので、ノックはちゃんと100%動けるようになってから。最悪、石垣島で数を受ける方でもいいかなという感じですね」と正面の打球を多く受けたいとのことで三塁のポジションで黙々と受けた。翌21日には正面の打球だけでなく、三塁線やショート寄りといった打球を打ってもらい、着実に完全復帰に向けて進んでいる。
チームに欠かせない選手
三木は昨季、一塁(1試合)、二塁(10試合)、三塁(24試合)、遊撃(56試合)に出場した。内野のポジションを全てこなすなど、チームに欠かせないユーティリティープレーヤーだ。試合終盤の代走や守備固めでの出場は多いが、故障者やアクシデントがあったときにスタメンで出場しても、自身がアウトになっても走者を進めた打撃や、右方向にしぶとく安打を放つなど、役割を果たしている。絶対的なレギュラーではないが、替えがきかない選手の一人だ。
「新人がいい結果を残して、(一軍に)残ってやってしまえば、僕は下からスタートなので、相当アピールしないとダメですし、そういう立場が自分しかいないという気持ちでやっていると多分ダメ。そこは難しいですけど、ここ2年間は一軍でやったという自信もありますが、あんまり勘違いしてはいけないところかなと思います」。
ここ2年間一軍でプレーしてきたという意地を見せながらも、危機感を強く持っている。
「立場的に余裕を持ってできる立場ではないので、動けるようになったら、アピールするしかない。それに向けて、復帰したときにいいパフォーマンスができるよういいリハビリをいろんな動きをつけながら、やっているところです」
「矛盾してしまいますが、焦ってもダメですし、かといって自分のペースでやり続けるのかといったらそれも違うと思う。レギュラーでもなんでもないわけですから。そこは難しいですけど、うまいこと体と相談しながら、バランス取りながらというところです」。
完全復帰に向けて、段階を踏んでいる三木。「今のところのプランは、第2クールから全体に入れるくらいに持っていければいいかなという感じですね」。即戦力の新人・福田光輝が加入し、ますます一軍の内野手争いが熾烈な戦いになっていくことが予想される。生き残りをかけた戦いに入るため、まずは目標にしている春季キャンプ第2クールからの全体合流を目指していく。
で、実際は一昨年のシーズンでは外野も守ってまして、こんだけまんべんなくいろんなとこを守れる(捕手を除く、一塁・二塁・三塁・遊撃、そして外野)のは、昨季までだと鈴木大地・平沢大河と三木亮、少し前だとやはり一昨年途中に引退した大嶺翔太…ぐらいでしょうかね。ゆえに大嶺翔太と鈴木大地は今季は既に千葉ロッテに居ないので、平沢大河と共に「出番があればどこでも守るのは辞さない」という意味では勝負の一年にはなると思うんですけども。
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たまには「逆に」レアード様に寿司を食わせて欲しい(笑)
でも怪我からの回復はねえ…焦る気持ちは物凄くわかるような気がするんですが、長いシーズン、チームが必ず三木亮を必要とする場面は出てくると思うんで、若手の平沢大河は逆にキャンプインからガンガン行って首脳陣にアピールするぐらいじゃないといけないんでしょうが、三木亮に関してはむしろ怪我の再発等を抑えながら、長いシーズン戦い抜けるようになるぐらいの回復をメインに心身共に「整えて」行ってくれれば嬉しいですね。
そして個人的には今年は、
たまにはホームラン打ってレアード様に寿司を食わせる側に回ってくだちい(笑)
なんだろう、この勝俣州和氏の記事を読むと三木亮が目に浮かぶのは…。
・「何度も潰されかけた…」勝俣州和が明かす“TV界のタブー”打ち破った過去(オリコン)
この三木亮の記事を読む直前に見てたのが勝俣州和氏の記事だったんですが、なんかちょっと「近い話」だなあと。いや、「バイプレーヤー」という意味ではね。
あ、すみません。引用が長いです。でも切り取るとこがないぐらいいい記事ですので(苦笑)
30年以上に渡り、バラエティ番組の第一線で活躍し続けるタレント・勝俣州和。どんな大物タレントとも分け隔てなく絡める汎用性の高さから、“企画成立屋”の異名を誇るが、いることが当たり前すぎてしまうとその重要性が希薄にもなる。そういう意味では過小評価されているタレントと言えるだろう。そんな彼が、90年代のバラエティ業界でタブーとされてきた、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンら大物芸人と分け隔てなく共演するという“免罪符”を如何にして勝ち取ったのか? じっくり話を聞いた。
■欽ちゃんからの洗礼! 週5日、毎日12時間の稽古で“1番・セカンド勝俣”を確立
――超が付くほどのテレビっ子だった勝俣さん。一世風靡のメンバーとしてオーディションに合格後、萩本欽一プロデュースによりアイドルグループ・CHA-CHAとして人気を博しました。今の若い世代には想像が出来ないでしょうけど、当時のCHA-CHAは“喋れるアイドル”を確立し、後のSMAP以降のアイドルたちにも多大な影響を及ぼしました。その生みの親である萩本欽一さんからは具体的にどのような洗礼を受けたのでしょうか?
【勝俣州和】「とにかく手を挙げろ。何も無くても手を挙げろ」。これが僕に課せられたことでした。とにかく最初にかき回せと。1時間の番組を作るのに、週5日間、毎日12時間の稽古でしたから。週1回の放送のためにここまで時間を割いてましたから。だから、自ずと鍛えれますよね。出来なくて泣くヤツもいたけど、僕は「なんで泣くんだろう? テレビ出てこんな楽しいのに」って思ってました。――辛いなんて微塵にも感じなかったと。
【勝俣州和】辛いとは全く思わなかったですね! こんな楽しいテレビという世界で遊ばせてくれるのに!って(笑)。辛いと感じた子は“稽古”だと思ってしまう。でも僕は本番までの“練習”として考えていたんですよ。欽ちゃんがノックをしてくれるなんて、そんなの夢のような時間でしたよ! “1番セカンド・勝俣”じゃないけど、とにかく打席に立って振って来いと。でも、見逃しの三振だけはしちゃいけない。とにかく当てて塁に出るということを欽ちゃんに仕込まれましたから。“面白い、面白くない”ではないんですよ。そんなことはどうでもいいから、とにかくバットを振れと(笑)。――そこから徐々に信頼と打率を上げていき、レギュラーポジションを勝ち取っていくわけですね。
【勝俣州和】そうですね。で、とんねるずなんかと共演するようになってくると、打順にも変化が生じてきて。あの人たちは常にクリーンナップを打つような強打者なので、そんな化け物と共演するようになって、僕自身も徐々にホームランが打てるようになってきた。なぜなら彼らが教科書のようにホームランの打ち方を間近で見せてくれたからなんです。■とんねるずと絡んだらウンナンとは“共演NG”だった90年代「何回も潰されかけたけど…」
――勝俣さんの特筆すべき点として、先ほどのとんねるずさん以外にもウッチャンナンチャンさん、ダウンタウンさん、さらに和田アキ子さんなど、超大物タレントたちと満遍なく絡めるしオファーも来る。これは90年代のバラエティ界では考えられなかったことだと思うんです。ある種のタブーだったというか。
【勝俣州和】これは今だから言えますけど、実際に何回も潰されかけましたよ。当時はそれこそウンナンと仕事したらとんねるずとは仕事しちゃいけない、ダウンタウンとも仕事をしちゃいけないという暗黙のルールが存在していたんです。周辺スタッフが共演者を囲っていたんですね。――タレントさん本人がNGを出していたわけではなかった?
【勝俣州和】後々、本人たちに聞いたら、そんなこと一度も言ったことはないって。でも、当時はガッチガチで番組スタッフの偉い人から「どっちを取るんだ。ハッキリしてくれ!」って何度も迫られましたね。そんな時代だったんですよ。今では考えられないですけど(笑)。――90年代のダウンタウンさん、ウンナンさん、とんねるずさんと言ったら、互いに頂点を極めようとしている過程だったので、当人たち以上に周辺スタッフがピリピリしていたんですね。想像するだけで緊張感が(笑)。
【勝俣州和】ウチのマネージャーとも話すんですけど、大きな事務所じゃなかったのが良かったねって(笑)。ウチは柳葉敏郎さんとか木村多江さんとか俳優さんが多くてバラエティって僕1人なんですよ。だからこそ、ある程度小回りが効いたとも言えます。もし大きな事務所さんだったら満遍なく共演するということは絶対に無理だったでしょうね。――とはいえ、同志がいない中たった1人でその道を開拓していくのは相当大変だったのは容易に想像がつきます。
【勝俣州和】もうね! 巨大空母にたった1人ビート板で向かっていくようなもんでしたよ(笑)。――アハハハハ! 無謀にも程がありますね(笑)。
【勝俣州和】ただね、巨大空母は攻撃を受けたら沈む可能性がありますけど、ビート板はいくらひっくり返ったって沈まないんですよ。――なるほど(笑)。
【勝俣州和】空母は燃料も掛かるでしょ? でも、僕はバタ足さえ死ぬ気で頑張れば何とか前に進める(笑)。(一同爆笑)
【勝俣州和】いや、本当にこの大海原をビート板とバタ足だけで生きてきましたからねぇ(しみじみ)。潰されかけはしたけど、一生懸命ちょっとずつでも前に進んでいれば、救ってくれる人や評価してくれる人も現れるんです。例えば、『笑っていいとも!』に出演が決まった際、ディレクターだった荒井(昭博)さんから「タモリさんと若手タレントの繋ぎをかっちゃんがやってくれ!」って任せてくれたんです。あれは嬉しかったですねぇ(しみじみ)。
■ロケ収録日に大物タレントの怒号! 『気分は上々』でウンナンと交わした“誓い”とは?
――番組が上手く回るための潤滑油として認めてくれたんですね。
【勝俣州和】あと『ウンナンの気分は上々』の時もね。当時はバラエティにガッツリ歌手の方や俳優の方が出ることは無かった時代だったんです。――確かに、番宣でゲスト的な扱いはあっても、本編に絡むような出演は皆無でしたね。
【勝俣州和】ロケもバラエティもやったことが無い大御所の方とウンナンの間に僕が入って2泊の旅をするという(笑)。僕ももちろん大御所の方と喋ったことは無くて。――現在は、俳優さんも歌手の方もバラエティに対してリスペクトを持って臨んでくれますが、当時は…。
【勝俣州和】まったくすり寄ってくれなかったですから! その大御所の方が「なんでこんな仕事受けたんだ!」ってマネージャーさんと揉めてる所から番組ロケがスタートするという。――地獄絵図ですね(笑)。
【勝俣州和】生きた心地はしなかったですけど、なんとか移動中やロケの合間なんかも大御所さんの近くにいて、何気ない会話で徐々に徐々に心を開いてもらって。――なんとか心をほぐして(笑)。
【勝俣州和】そうそう(笑)。その当時ウンナンとよく話していたのが、大御所の方が出演してくれた際には「また来てもらえるようにしようね!」って。で、それが現実になってきましたからね。「ウンナンの番組ならまた出たい」って大御所の方も言って下さって。――それはタレント冥利に尽きますね。
【勝俣州和】そうやって人気番組でも“練習”させてくれたことは大きかったですね。とんねるずだって『生ダラ』の時、僕司会やらされてましたからね。なんで僕が回すの?ってディレクターに聞いたら、「いや、かっちゃんだったら出来るでしょ?」って軽~く言われて。でも、実際に回し方や盛り上げ方は覚えてきますから。そうやって超人気番組で練習させてもらったことは僕の財産になってますね。■僕は「人より上に行きたい!」よりも、「人より楽しいところに行きたい」です
――先ほど、人気番組で“練習”させてもらったことが有難かったと仰ってましたけど、やっぱり勝俣さんってポジジョンを与えられたわけではなく、“勝ち取ってきた”方だと思うんですよ。
【勝俣州和】うーん。いや、僕自身はあまり勝負してきたという意識はないんですよねぇ。――でも、タブーだった大物芸人さんたちとの自由な共演環境を勝ち取ったのもそうですし。それって今なら当たり前ですけど、その礎を築いたとも言えるわけで。
【勝俣州和】……もう少し評価されても良いですかね?――(笑)。綺羅星ように輝く大物芸人さんたちと絡んできて、最高の2番バッターとしての役割を担ってきましたが、凄腕の4番バッタ―たちと共演することで、これまで勝俣さんご自身の中に「自分も4番を打ちたい、自分がメインの仕事がしたい!」という欲求は生まれなかったんですか?
【勝俣州和】うーん……これはよく(島田)洋七さんが話すんですけど、あの人はB&Bで頂点を極めて、その数年後には何も仕事が無くなってしまって、『がばいばあちゃん』で再ブレイクした。そんな洋七さんが「お山の頂上っていうのは、酸素の薄いから木も草も何も生えていないだろ? 長くは生きられない場所なんだよ。頂上も良いけど、ちょっと下りたところには小川も流れているし花も咲いている。そういう場所が一番住みやすいんだ」って仰るんですね。僕はその言葉が凄い好きでね。僕、プライベートで富士山によく上るんですけど、頂上から見るご来光も8合目から見るご来光も大して変わり映えしないんですよ。いや、むしろ頂上は込んでいるから8合目の方が美しい景色が見える。――頂上は混み過ぎている(笑)。
【勝俣州和】メチャ混んでるんですよ! ご来光なんて見えやしない(笑)。芸能界も同じような気がするんですよね。僕は、「人より上に行きたい!」というより、「人より楽しいところに行きたい!」なんですよ。――勝俣さんらしい言葉ですね。
【勝俣州和】怒られるかもしれないけど、今、テレビは不景気だって嘆いてる人が一杯いるんですけど、僕はちょっと笑ってんですよね。不景気だとギャラの高い人が使えなくなるじゃないですか? 僕ね…格安なんですよ。(一同爆笑)
【勝俣州和】格安でメッチャ一生懸命やるんですよ(笑)。ってことはですよ? これは今の時代、僕にとっては大チャンスなんじゃないかって。
――コストパフォーマンスという意味では勝俣さん以上の方はなかなかいないでしょうね(笑)。
【勝俣州和】若手並みの無茶も全然出来るしね(笑)。
しかし1990年代、とんねるずとダウンタウン、そしてウッチャンナンチャンの勢いは本当に凄いものがあったのはよく覚えてるんですが…共演してない「裏」ではそういう番組スタッフの「囲い込み」があったんだねえ。そこをうまく絡んでいって名脇役・バイプレーヤーとして未だに現役バリバリで活躍してるってのは凄いなあ。野球で言えば2番打者で長く続けていて、なかなかホームランのような派手なプレーはないけど、気づけば40歳を過ぎてもプレーしていて2000本安打まで到達してました、という稀有なタイプだなーと思いますね。
現状を認識して把握したら
処理すりゃいいんだ。
その行動を起こせない奴を
俺の基準で馬鹿という。https://t.co/OTa0dhICai— 立川談志の名言・格言_bot (@dannshi_bot) January 21, 2020
↑まさに「これ」だよなー(笑)
と同時に言えるのは「こういうタイプの名脇役・バイプレーヤーこそ、大事にしろよ?」ってことですかね。まあかつての巨人の長嶋監督には言ってもわからんでしょうが、果たしてロッテの井口監督はどうだろうか。ま、どっちかというと参謀役の鳥越ヘッドコーチがこういうタイプの選手だった印象があるんで、見てるとこはしっかり見てる…と信じたいですね、はい。
以上です。
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