・「走れコウタロー」シンガー・ソングライターの山本コウタローさん死去 73歳 脳内出血(スポニチ)
いやー最近はカラオケじたいがとんとご無沙汰だったんですが、個人的には10代後半から30代に入った頃ぐらいまではしょっちゅうカラオケに行っては定番が松山千春か、この山本コウタローの両氏の歌ばっかでした。うーん、残念だねえ。
シンガー・ソングライターの山本コウタロー(やまもと・こうたろー、本名・山本厚太郎=やまもと・こうたろう=)さんが4日、脳内出血で死去したことを15日、山本さんの公式ホームページが発表した。73歳。東京都出身。
ホームページでは「山本コウタロー永眠のお知らせ」と題して、山本さんの死去を報告。「2022年7月4日未明、脳内出血で息を引き取りました。享年73歳。体調不良のため静養中のことでした。生前のご厚誼に深く感謝申し上げます。誠に勝手ながら故人の遺志により葬儀は近親者のみで執り行いました事を謹んでご報告申し上げます。2022年7月15日 親族一同」と説明した。
山本さんは一橋大学在学中からフォーク・グループ「ソルティー・シュガー」のメンバーとして活動。1970年に自身の名前が入った「走れコウタロー」が大ヒットして日本レコード大賞・新人賞を受賞した。74年には山本コウタローとウイークエンドとして「岬めぐり」がヒット。また、TBSのドラマ「渡る世間は鬼ばかり」にも出演。86年からは地球環境問題に造詣が深いことから白鴎大教授として教べんも執るなど、マルチな活躍を見せた。
確かどこかの大学の先生をやってた記憶はあったんですけどね。もう73歳だったのか…。
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いやー、さだまさし氏の歌はカラオケでは歌いづらかったんで(笑)
高3の頃からさだまさし氏のラジオ番組のリスナーのオフ会のような小さいサークルに参加していて、そこが後に「さだに飽きたから」とクイズサークルに転ずることになるんですが(笑)、初期の頃から15-6年目ぐらいの頃まではちょくちょくカラオケボックスとかに行って仲間と一緒に歌いに行ってました。
で、なんでサークル内のカラオケで「メイン(?)」さだまさし氏ではなく、私自身はこの人や松山千春氏の歌をカラオケで好んで唄ってたかと言いますと、「もともと通信カラオケができる直前で、選べるレパートリーが少なかった(かつてのヒット曲系しかなかった)」のと「実に歌いやすかった」からなんですね。
それとさだまさし氏の歌は通信カラオケが入る前までは「精霊流し」あたりしかなく(下手したら最大のヒット曲だった「関白宣言」も入ってなかったかもしれません。何せ一度も唄った記憶がないので)、なおかつさだ氏の歌は「思ってる以上にキーが高くて歌いづらい」んで、このオフ会のようなサークルを立ち上げて3年ぐらいして通信カラオケが入った後に試しに唄ったら「うーん、これは喉が辛い。しかも曲が長い。」と(苦笑)
その点、松山千春氏の歌はキーは高い反面、実に歌いやすく、
↑今から思えば「もともと歌いやすいメロディ」なのと「歌詞と歌詞の間の息継ぎが比較的ラクな感じ」なのが非常に重宝したんでしょうね。仲間内以外の大学のゼミとか職場のカラオケではマニアックな選曲をするとドン引かれる可能性が高かったんで、もっぱら松山千春氏のヒット曲をメインに唄ってました(^_^;)
もっともソルティー・シュガーもウィークエンドも自分らが高校生の頃には「懐メロ」のジャンルに入ってたんですが、
松山千春氏の曲よりも更に、とにかく歌いやすくそして他の面々も多少知らなくても一緒にハモれるってので盛り上がるにはちょうどよく非常に重宝してました。しかし当時10代後半が中心のサークル(ほぼ全員がさだまさしファン)にも関わらず、「走れコウタロー」の美濃部都知事のモノマネから競馬実況のシーンをみんなやりたがってマイクの奪い合いに転ずるというサークルのお約束はあれから30年も経過しても今から思い出しても珍奇な思い出話として残ってますです(笑)
※余談としては通信カラオケが普及してからは、中学の頃からさだまさし氏と同時進行をよく聞いてハマっていた大江千里氏の楽曲も大量に歌えるようになって「おお、これは便利な時代になったわ」と大喜びでした。まあそのさだまさしと大江千里の両方のファンつながりで今の妻と知り合って結婚することになっただけに(^_^;)
ついでに書くと「走れコウタロー」が昭和45年の、「岬めぐり」が昭和49年のそれぞれのヒット曲なんで、もう47-52年ぐらい前の曲なんですが全く色褪せずにフツーに聞いてても「いい曲だなあ」と思う次第で、やはり日本の邦楽の歴史を築き上げてきた名歌手・メロディメーカーのひとりだったんだなあと思いますです。
最後にご冥福をお祈りいたしますです。
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